下流志向 - 学ばない子どもたち働かない若者たち 内田樹著 (講談社文庫)
子どもたちの学力が年々低下していることが指摘され、学力の引き上げをしなければならないという問題意識が共有される一方で、ではそもそも何故学力が低下し続けているのか?という問いに対しては我々は考えることを放棄してしまっているのではないだろうか。
本書では子どもたちが学び、並びに若者が労働から逃走する理由を、彼らが「消費者」としての立場で教育・労働と向き合っているためと洞察する。つまり、子どもたちや若者は、教育や労働から得る報酬が、自分の「ものさし」に従い自分の支払い(努力)と等価交換でないと判断するならば、教育や労働を価値がないものと見なすように変貌してきているのではないか、という見解である。更に筆者は、彼らの「ものさし」が無時間的であるために、現在の「好き・嫌い」という刹那的な判断に基づいて自己決定を行うことに高い満足を得ていることを指摘する。そこには将来的に得る可能性のある価値は含まれない。
非常に短い大学教育の現場での経験からではあるが、この意見は的を得ているように思う。以前、講義の最中に、ある学生から
「この作業を行うことにどのような意味があるのですか?」
と問われたことがある。エクセルでのソートを説明する際に、結果がどうなるのかを伏せたままで表と関数の入力を指示したときの話である。
「全ての作業が完了したときに今行っている作業の意味が理解できるから、まずはその全てを実践してみなさい」
と返答すると、その学生は非常に不本意という顔で、不快感を顕わにしながら作業に戻った。その後ソートを実行させると、何か納得していたようではあったが。
学生達の物事への取り組みの傾向として、「結果がどうなるかわからないことはやらない」ように変わってきているのではないか、と感じる。「学習することにどんな意味があるのか?」その意味は学習をしないととわからないし、学習することで意味は変わっていく。
もう少しかみ砕いて、わたしの解釈を含めて言うならば、学習は自らの可能性を拡張する機会だ。最近よく聞く若者の悩みの1つに
「自分が何をしたいのかわからない」
というものがあるが、何も知ろうと思わなければ、何をしたいのかわからないのは当然ではないだろうか、と思う。また、何か新しいものと出会った際に、現状の自分の「好き・嫌い」だけでそれと向き合うか否かを決定していては、自分の可能性は広がらない。
友人の言葉で好きな言葉がある。彼女の父親の言葉だそうだが、
「食べ物の好き嫌いを許さないわけではない。しかし食わず嫌いはいけない。一口でも食べて判断しろ」
というものだ。これは学問にもあてはまる。まずその分野が本当に嫌いか、自分に合わないかを知るために、本気で取り組み合ったか? その上で人には向き不向きというものがあるから、諦めが必要な場合もある。ただ、本気でそのような取り組みをしているものは少ないように思うのだ。
「どうして勉強 (労働) しなければならないのか?」と思うのであれば、まず勉強「しない」ことのメリット、デメリットを考えてみたら良いのではないかと思う。メリットはおそらく現状の自分が楽しい気分で居られる、というところだろうか。そこに将来の自分のメリットは考慮されているだろうか? 例えば労働しないことで将来の自分がホームレスとして生きるような可能性を考慮し、そのリスクを受け入れる覚悟はあるのだろうか。そういった絶対たる信念や覚悟をもって「さぼる」ことを選んでいる人間には、まだ会ったことがない。
とまあ、どうも私は説教臭くなるのだが、若くて時間があるうちに、あまり好き嫌いせず、なんでも一所懸命やってみろよ、というのが私の主張です。井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さを知る? その「深さ」は何と比較して「深い」のか?
内田樹の本は学生に勧めたい。特に、寝ながら学べる構造主義、女は何を欲望するか? は、読んでみて欲しいと思う。
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